八戸ペンクラブ
The Hachinohe P.E.N. Club

寄稿・論壇 故鈴木伝三郎先生との思い出

野里紀子

 現在私は八戸工業高等専門学校で木曜日一日だけ書道の非常勤講師を務めています。

 私は以前22年間光星学院高等学校で非常勤講師をしており、そのうち、 5年間は高専と光星と、2校を掛け持ちをしました。

 光星学院に初めて挨拶に伺った折、 校長の中村キヤ先生に挨拶した後非常勤講師室に案内されました。そこには10人前後の先生方がおられ、その中に4・5人の70代ぐらいの姿があり、その一人が鈴木伝三郎先生でした。その姿は矍鑠としていて、二コニコしながらイスに座っていらっしゃいました。他の先生は私と同じぐらいか少し若い先生方でした。若輩者であった私たちは年配の先生方から教わる事が多々ありました。そういう先生方と交流できたのは今考えると、とても貴重な事だったのだなあと思っております。

 その頃の鈴木先生はとても話しやすい気さくな方でしたので空き時間によく雑談しました。先生は何かにつけて昔の強烈な思い出が蘇るよう戦争を知らない私たちに第2次世界大戦の終戦時に中国大陸で列車に乗っている時、八路軍の襲撃にあって奥様と次女の方を失った話を繰り返しお話してくださいました。 ある時先生から私たち非常勤の仲間に「延安捕虜日記」が刊行したからとおっしゃって本を頂きました。本の中に記載されている先生の経歴を見て非常に驚きました。

 先生は東京帝国大学を卒業し、中国、山西省政府教育行政顧問や国立華北行政学院教授というように重要なお仕事に付いておられたようです。 この事から先生がいかに偉大な方であったかが知る事ができました。先生にはお子様が4人いらっしゃって、 次女の方が亡くなったので先生とお子様たち3人、計4人は捕虜になったようです。その事が「延安捕虜日記」に詳しく載っております。その後、無事日本に帰還されましたが、 先生の郷里の福島ではなくて八戸に腰を落ち着けたようです。八戸では八戸高校や八戸工業高校の校長先生として御活躍され、定年退職後、高専におられたようです。その後、光星高校の副校長として迎えられ、その後80歳ごろまで英語の非常勤講師をしておられました。

 鈴木先生の体験から伝わってくるのは昭和の戦争は日本国民の人生をすっかり狂わし、一人一人の幸せに生きる権利を根こそぎ取り上げてしまったことです。私の父(大正10年生まれ)も今はもう日本の領土ではありませんが戦争中は領土であった樺太の師範学校に入り、極寒の中で学生生活を送ったそうです。父は生前樺太に関する単行本や雑誌や写真集などたくさん買い集めておりました。いかに樺太に対する思い入れが深かったかを示しております。師範学校を卒業後、その土地で朝鮮の子供たちに教えたこともあったようです。その後、召集され千島列島に駐屯している軍隊に入隊し、終戦直後、 九州の最南端から南方へ今まさに出撃!という時に終戦になったそうです。父の仲間は何人か出撃し命を落としたそうで、こんな形で生死が分かれたならば父の気持ちがいかばかりかと思うと心が痛みます。

 鈴木先生とのお付き合いは光星高校だけでなく、ひょんな形で短歌の結社でも約7年間御一緒しました。 佐々木久枝先生主宰の「若菜」という結社です。八戸公民館の2階にある和室で月一度歌会があり、たびたび短歌の仲間と会食したり、旅行に参加したり、いつも鈴木先生と御一緒し、前より余計仲良くなりました。 その頃鈴木先生は一人暮らしだったようで、どこか寂しげな様子でした。 カネイリの2階の喫茶店で一人静かにコーヒーを飲んでいらした時に時々鉢合わせるし、二人でコーヒータイムを楽しみました。私が短歌会をやめてから会う機会がなくなり人づてに田面木の南山苑に入って亡くなられた事を知りました。

 鈴木先生とのお付き合いは私にとって大きな財産であり、先生や父たちの世代の体を張った体験をこのまま埋もれさせてはいけないということを学ばせていただきました。戦争を体験した世代がだんだん少なくなり、現在の政治がなんとなく右傾化しているように見える昨今。太平洋戦争で大勢の若い日本兵が犠牲となった。その上にたって今の平和な世の中で安穏と暮らしていた私たち。 しかし、東日本大震災やこの頃の地球温暖化による気象変化からか、大雨のための洪水や渇水やこの夏の異常な高温などなど今までに経験しなかったような災害が多くなっている事で安穏としてはいられなくなりました。戦争と同じぐらいの危機がやって来たと思わざるを得ません。

 これからの私たちは戦争を必死に生き抜いてきた70代後半から上の世代の人たちの体験をきちんと聞き、 そこから困難に打ち勝つ強い心がけを学んで命を大切にする日本をみんなの力で作りあげることが課題になると思います。

(独立行政法人八戸工業高等専門学校非常勤講師)