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八戸藩代官史料 八戸廻御代官御用留抜書

著者:工藤 祐董

 本書の表紙に掲げられた表題は「天明三卯年飛々八戸廻御代官御用留見合之箇条抜書」となっているが、題名が長過ぎるので「八戸廻御代官御用留抜書」と略称を付しこれを表題とした。表紙に 『文久二戌年認』(一八六二筆記) とあるのでその成立年代は幕末の文久二年である。また表題の左に『遠山荘七景慶』 と著者名が付記されている。『八戸藩遠山家日記』(平成三年青森県文化財保護協会刊)の解説によれば、遠山氏は八戸藩三代藩主通信の治世に召抱えられた家臣と推定され、俸祿は寛政三年(一七九一)には地方百石であった。弘化二年(一八四五)には金成(現金支給の俸祿、現金一両を五石に換算) 二五石(五両)を加増され都合一二五石となった。歴代勤功帳によれば遠山氏の初代庄太夫は八戸廻代官を勤めた。二代庄太夫より五代庄右衛門迄江戸常府と見なされ、江戸藩邸で納戸役等家政系統の役職を勤めていた。家格は番士家格であるが、五代庄右衛門は安永一〇年(一七八一) 加判役に任命されている。同人の代に何らかの功績で家格が引上げられたのではないかと思われる。 六代七蔵は天明七年(一七八七) 家督相続、番頭格を仰せ付けられたが、寛政三年在所八戸へ引越を許された。七代庄右衛門、 八代庄太夫は目付役、寺社町奉行等の役職についている。本書の著者遠山荘七は遠山氏九代にあたり、安政五年(一八五八) 七月九日家督相続、同年一一月二三日納戸役、文久二年(一八六二)五月一日八戸廻代官、慶応元年(一八六五)五月二三日御側頭取御刀番、納戸役兼帯となっている。本書は遠山庄七が八戸廻代官に任命された文久二年に、執務の参考として八戸廻代官留書の中から抜き書きしたものと見なされる。 八戸藩の代官関係のまとまった記録は管見の及ぶ限りでは極めて少なく、「八戸藩日記」、「目付所例書」等に散在する代官関係の記述を拾わざるを得ない現状である。公刊された代官史料としては、『文久二年五月八戸廻御代官御用留』(平成九年岩手県九戸郡種市町教育委員会刊)があるのみで、その著者は、本書の著者である遠山荘七と相役摂待忠兵衛の両人となっている。同書は文久二年五月より十二月迄の記録である。本書は天明三年(一七八三) よほぼ寛政七年(一七九五)までの記録である。ただし、天明四・五年、寛政元・四・五・六年の分は記録されていない。また寛政何年か年号不明の分が記録されている。  このように飛々の抜書ではあるが、数少ない代官関係の文献としてここに取り上げた次第である。  本書は元八戸市立図書館長西村嘉氏より、頂戴したコピーによるものである。その原本はかなり汚損した部分がある。原本は八戸市立図書館「遠山家旧蔵本」の中に含まれている半紙横半帳である。なお、本史料は八戸市立図書館の御了承をいただき八戸短期大学研究紀要に掲載するものである。

掲載元情報光星学院八戸短期大学研究紀要第20巻(1997)pp.一-十二
カテゴリー歴史(近世以前)
発行年月日1997/12/20
閲覧先八戸学院学術情報リポジトリ
閲覧先での公開範囲非公開