ヌカブグンノ「ト」ト「モン」

糠部郡の「戸」と「門」

著者:工藤 祐董

糠部は古代末期から近世初頭にかけて、岩手郡・閉伊郡 久慈郡(以上現在岩手県の一部) より北の地域の総称であった。現在の岩手県北部と青森県東部を合わせた地域である。西は鹿角・津軽に接し、北と東は海に面する広大な地域である。上述の時代、その明確な始期は不詳であるが、糠部は一戸から九戸にわたる『九ヶの戸』地域と、それに接する『東の門』(青森県三戸郡階上町・岩手県九戸郡種市町等)・『西の門』(岩手県二戸郡浄法寺町等)『南の門』(岩手県岩手郡葛巻町等)・『北の門』(青森県三戸郡田子町等)の東・西・南・北の『四つの門』地域に区画されていた。もっとも後に触れるように「門」制は早く衰退し「戸」制に吸収されていったと見なされる。宇曽利(青森県下北半島地域)は当初糠部に含まれていなかったというのが通説である。しかし、 『岩手県中世文書』所収、正中二年(一三二五)の『安藤宗季譲り状』に『ぬかのふうそりのから』(糠部宇曽利の郷) とあるので、少なくとも鎌倉時代後期には下北地方も糠部に属していた事になる。また糠部は『ぬかのぶ』と呼称されていた事を示している。 『吾妻鏡』建久元年二月十二日の条に『於外浜与糠部間。有多宇末井之梯』(外の浜と糠部との間において多宇末井の梯あり。)と述べている。多宇末井は現在浅虫と野内の間にある善知鳥崎に比定される。したがって当時糠部と津軽の境界はこの付近だったと考えられる。

掲載元情報光星学院八戸短期大学研究紀要第19巻(1996)pp.一-十九
カテゴリー歴史(近世以前),地域分析
発行年月日1996/12/20
閲覧先八戸学院学術情報リポジトリ
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