八戸商工会議所と商工業の歩み
八戸商工会議所
1.八戸商工会議所の草創期
八戸商工会議所が発足したのは戦前の昭和15年。既に漁港完成、魚市場開設、商港の着工と産業基盤も徐々に整備され、商工業発展に向け条件が整いつつある時であった。発足から程なくして太平洋戦争が勃発し苦難を強いられたが、戦後を迎えると昭和21年に社団法人として再スタートを切り活動を本格化。戦後処理や中小企業対策に取り組み、昭和29年には商工会議所法に基づく特殊法人となり現在に至っている。
2.新産業都市指定と高度経済成長時代
昭和30年代に入り高度成長時代に突入すると、自衛隊、労災病院、国民金融公庫、NHK、県合同庁舎、火力発電所、高専など地域振興に欠くことのできない誘致案件が商工会議所を軸に進められるなど、いち早く地域発展の課題を把握し、適切な対策の具体化することが商工会議所の責務となっていた。昭和32年には、八戸市長の諮問機関である「八戸総合振興会」が結成され、当時、会頭であった熊谷義雄氏が代表となり、その後の八戸を決定づける政策を形作っていった。
昭和37年になると新産業都市建設促進法が国会で成立。国の費用で地方の大規模開発を行うこの計画は、全国に大きな波紋を投げかけ、指定を受けようとする全国44地区による陳情合戦は熾烈を極めた。八戸も官民挙げて陳情活動を展開。熊谷会頭の政界転身の決意もあり、昭和38年7月の閣議で八戸地区は13ケ所中、13番目で指定を勝ち取った。これを機に、第二工業港、夢の大橋、防波堤、ポートアイランドなどの計画が進んだ他、三菱製紙、大平洋金属、八戸製錬、東京鉄鋼等の工場立地もあり、総延長20kmに及び工業と漁業、商港機能が集積。この指定が今日に至る八戸市の商工業発展に大きく寄与した。
3.商業近代化への対応
昭和40年代に入ると商業活動も活発化。大型店進出は昭和43年の八戸丸光、緑屋の中心商店街出店に始まり、長崎屋、ニチイと続いて、中心商店街の様相は一変。昭和55年にはヨーカ堂進出により、三春屋との乱売合戦が発生。商工会議所が調停に入る場面もあった。昭和も後期になると、次の大型資本進出は郊外型SCと予測され、地元商業者が結集し、地元主導による郊外型SCの計画が浮上。商工会議所食品商業部会長が会長となり研究会を組織して、平成7年のイオンモール下田開業に先立って、平成2年に地元主導によるラピア開業に繋がっている。
4.20周年を迎えた東北新幹線八戸駅開業
平成14年には八戸市民の悲願であった東北新幹線八戸駅が開業。新産業都市指定と同様に八戸市にとって歴史的出来事となった新幹線開業に対し、商工会議所では、その経済効果を最大限引き出すため多くの事業を展開。平成9年の提言取りまとめを皮切りに、平成11年には開業事業推進室を設置。平成13年には駅舎等整備基金募金を開始。最終的に商工会議所への寄付は2億5千万円にも上った。同7月には会員を中心に「新幹線八戸駅開業事業実行委員会」を設立。開業に向けて果敢に準備を進め、一大イベントとなった開業日には、多彩な催しで大きな賑わいを創出した。また、八戸屋台村「みろく横丁」の開業、八戸らーめん、八戸前沖さばなどの食文化の創造と発信に取り組んだ他、首都圏旅行エージェントとのタイアップや首都圏でのキャンペーンの開催による誘客、パンフレット作成や案内表示板の見直し、おもてなしの心の醸成といった受入体制整備など多岐に亘る事業を展開。後に全国から新幹線開業の成功事例と呼ばれるまでになった。本年は、開業から20周年という記念すべき年となり、記念イベントが盛大に開催された。
5.八戸商工会議所の今後
これまで八戸商工会議所は、一貫して、八戸地域の発展に取り組んできた。現在、コロナ禍や不安定な国際情勢に起因した厳しい経済状況にあるが、今後も、地域の企業と共に、地域の明るい未来づくりに挑戦していく。
2023年2月掲載